息のできるところ

最近の私については言えば、ひと段落したと言って間違いないだろう。

心配でしかたなかった将来について、一応のレールをうっすら敷設できた。ディテールはまだまだこれからだが。

 

久しぶりに研究室へ赴くと、やはり空気の重さは相変わらずだった。少し変わったとすれば、それぞれ学年が問答無用にひとつ上がり、新入生が増えたことだろうか。

自分のことに区切りがついたので、ここぞとばかりに後輩に近況を尋ねる。みなそれぞれ早くもレール敷設に動き出しているようだった。

ひとつ気になったのは、数人が活動の場を減らしていることだ。研究室はただでさえ息苦しく、精神への栄養もほぼ皆無だと皆思っていて、それでいて研究室以外の、呼吸のできる場を、

減らしているのだった。

理由は、研究室が忙しいから。

なんてこと。こんな理由で息のできるところを自ら失うのは、リスクが大きすぎる。

 

彼らの決断がのちのち、自らの首を絞めることになるのではないか。

私は私にできるだけ見守っていこう。

冬が来る

先日、数少ない研究室のメンバーが新たに鬱病を発症した。私の所属する研究室は学部の中でもかなりマイナーな部類に存在していて、だいたいの人のは「えっ、なんでそれなの?」と驚かれるくらいには、なかなか珍しい分野であるという認識のようだ。

そんなわが研究室で、新たに鬱病患者がうまれたことについて、もう驚く人は誰もいなかった。彼の両親でさえそうだろう。

もともと鬱病になってしまった先輩なんてもう過去に何人もいて、鬱病でない研究室構成員だって、つねに毎日が鬱屈した気持ちとの闘いだ。こんな環境にあって、彼が鬱々としていたことは、周知の事実であったし、かといって周りも全員が鬱っぽい、どんよりとした空気のなかで生活しているのだから、別に彼だけが特別なんてことは全くなく、今回彼が「鬱病と診断されました、迷惑をおかけして申し訳ありません」なんて言い出した時、むしろ周りの反応は「ああ、ついに」だとか、「今回は君か」だとか、「耐えきれなかったかー」とかいうもので、本当にくるっていると思った。

たとえば、誰か一人だけが落ち込んでいたら、だれかしら心配してごはんに誘ったり、話をきいたりするものだろうが、研究室全体がこうも鬱屈した空気に包まれていては、誰もが自分のことで精いっぱいで、他人の憂鬱になんて付き合っていられないだろう。

 

申し訳ないが、私もそうだった。彼がつらそうにしているのは夏ごろから知っていた。でも、大丈夫ですか、と声をかけるだけにとどまっていたのは、やっぱり自分も相当きつかったからだと思う。今だって、誰かきつそうでも深く援助しようと思えるとは考えられない。

そればかりか、彼はきつい、と感じたらそれを表情や言動で隠さず表現する人間であった。かと言えば私は、きつくても苦しくても傷ついても、誰か自分以外の人間がそばにいるときには、努めてそういった感情を外に出さないよう、悟られないよう、常に気を使ってきた。よく言えば「ごきげん力が高い」、悪く言えば「隙がない」状態で、私は自分がそういう能力を早いうちから身につけていたことについて、それを誇りに思っていたので、不機嫌や疲れを簡単に表に出してしまえる人はきっと病まないんだろうなあ、なんて考えていたのだ。

だって、負の感情を出すってことは、周りが機嫌を取ってくれると思ってるからでしょ?それって甘えじゃん?

でも違った、彼は私より先にダウンした。

その理由はだいたい分かっている気がしている。

 

つまり、「逃げ場」—―。

 

どんよりとした研究室から逃れるだけの場所。

鬱屈した気持ちから目を逸らすだけの場所。

 そういったものが、彼になかったとは言えない。ただ、少なかったのだとおもう。具体的に何個あればよいということではないと思う。単純に、彼が持つ「逃げ場」では、この環境にはどうあがいても太刀打ちできなかった。

悲しいけど、それに尽きるんじゃないだろうか。

 

季節は容赦なく本格的に冬へと移り変わる。

明日は我が身、私はこの環境に耐えられるだけの「逃げ場」を持っているんだろうか。足りないとなれば一発アウト、即退場だ。

 

「死にたい」と「自殺したい」は一緒のようで別

座間の事件が世間をざわつかせている。

Twitterで自殺仲間を募集した女性などを男性が自宅に連れ込み、2ヶ月あまりで9人もの人を殺害したという事件で、その異常性やネット社会などを焦点にニュース番組やワイドショーは連日この事件について時間を割いている。

 

この事件について、「死にたがってた人が死ねたんだから、当初の目的は達成しているし、需要と供給の関係が成り立っているから良いじゃないか」とか、「被害者は殺害される時、抵抗したそうだ。死にたいと口にする人は本当に死にたがっているわけではない」とか、とにかくいろんな意見を見聞きした。

私はこのどちらの意見に対しても「それは違うんじゃないか」と思う。

「需要と供給」云々に関しては、まずこのひとは「需要=死にたい」「供給=殺したい」であると想定してこのような発言に至ったと考えられるが、果たして本当にそうだろうか。また、「死にたいと言っていた人が死ぬのを嫌がった」に関しても、被害者の言う「死にたい」の本意がどうあるか検討されてしかるべきではないか。

 

私は、被害者たちの言う「死にたい」は、「自殺したい」であると考えている。「死にたい」は状態を願っていて、「自殺したい」は、その状態に至る手段を自殺に特定する表現で、この二つには大きな差異がある。例えば、自分が「死にたい」と思うとき、確かに「死にたい」が、「殺されたい」と思ったことはない。大抵「死にたい」時は「自殺したい」とか「消えてしまいたい」時であり、「殺されたい」はもっと特殊な場合、特定の相手に対して抱くことが多いという気がする。

今回の事件では、被害者が自殺仲間を募集していたことからも明らかであるように、この「死にたい」は特に「自殺したい」ことを指すように思う。そうであるので、「需要=死にたい」は適切ではなく、「需要=自殺したい」のほうがより実際に近いと考えれば、「需要=自殺したい」「供給=殺したい」となり、需要と供給の関係は成り立たない。

また、それに加えて、「死にたがっていた人が死ぬのを嫌がった」ということに対しても、「自殺したがっていた人が殺されるのを嫌がった」のは当然であり、「死にたいと言う人は本心では生きたがっている」と結論づけるのは少し強引すぎるのではないだろうか。

 

話は逸れるが、現在のメンタルヘルスケアの観点では、「死にたいと口にする人は本心では生きたがっている」というのが定説であるようだが、私はこれに関しても異を唱えたい。死にたいという状況は様々な問題や荷物を抱え込み、将来への希望が見えなくなることで、生への執着が薄れるために引き起こされる感情であり、これはあくまで一時的なものであるから本心ではない、ということらしい。

一時的だと本心ではないのだとしたら、じゃあ空腹は、恋愛感情は、どうなる...?たとえ一時的であろうとも、その時そう思っていることは確かであるので、私は「死にたい」と思う時、本心は生きたいと思っているんだと感じたことはないし、また本心では生きたいと思いながら「死にたい」と言ったり書いたりしたこともない。本心から「死にたい」「自殺したい」と思う。

だから、「死にたい」は「生きたい」だよ、と言われても全然しっくり来ないし、私の本心を否定しないでくれ、と叫んでいる。もちろん心で。

泣くこと

講義を受けている時でも、バイトで接客している時でも、突然に涙がわいてくる。もちろん感動の涙ではない。

 

あれがつらかった、これがつらい、じゃなくて、ただ漠然と明るいこれからが見えなくて所かまわず涙腺が頑張ってしまう。

夜に気分が落ち込むのは、まあ、当然かな(当然でもないか)と思う。とりあえず温かい紅茶でも飲んで、Youtubeでお気に入りの料理動画でも見て、散々迷って恋人にどうでもいいようなLINEをして、そろそろ寝る時間かなと思ったところで布団に潜り込みさえすれば朝だ。どうしてもという時はアルコールを入れたり、効率的な自殺方法を調べたりする。やはり一番メジャーなのは首吊りなのか…とか、後遺症は…とか、広大なネットの海では情報は尽きることは無い。真偽は別として。

 

でも、昼の場合は困る。アルコールもなければ温かい紅茶もすぐには淹れられないし、なんといっても人目がある。

私は幼い頃から、かなり人目を気にして生きてきたんだなと最近になって思うようになった。

セルフコントロールなどがいい例だろう。こんなにつらい、死にたい、生きる理由とは、と日々悶々としていても、帰宅するなり大声で号泣していても、地元の親からすれば「あんたには悩みなんて無いでしょ」と笑われるし、研究室の構成員にも「メンタル強いっすねw」と言われてしまうような人間だ。簡単に言ってしまえば。セルフコントロールが上手すぎたのかもしれない。血の繋がった親にさえ、悩みがあるとさえ、言えないほどに悩みの無い自分をスタンダードにしすぎてしまった。

もちろん、セルフコントロールができることは、かなり人間関係において重要なことであると思う。不機嫌を撒き散らす人を見るたび「うおお~」という気持ちになる。だが、あまりにもセルフコントロールをしたために、人並みに悩みがあることさえ誰にも打ち明けることができなくなってしまってからは、セルフコントロールできない人への羨ましいという気持ちが大きくなる一方だ。あんなに周囲に迷惑をかけて大きな顔して生きていける、周りが気遣ってくれる。いいなあ。例えば私なんかは、恋人に振られる時、「おまえは一人でもやっていけるから」って言われる方の人間だと思う。勝手な想像だけど。

手の動くまま書いてみたが、それくらい自分の感情をコントロールすることに長けていると思う。ただし、それは部屋の中であったり、だれもいない場所であったりなどでストレス解消ができているからの話である。

話は冒頭に戻るが、昼間につらくなった時、泣きそうになった時、なすすべが無いのである。これまで泣きそうになるのは大体一人の夜と相場が決まっていたから、昼間にこうなったときにどうするか、経験による解決策がパッと出てこないのである。これはマズい。

今日なんかは気づいたらホームセンターで首を吊るのに最適なロープを物色したりなんかしちゃったりして。ロープの価格の相場なんて把握しちゃったりなんかして。

いずれ死にたいとは思っているけど、まだ全然身辺整理もできてないし、今はまだロープの購入には時期尚早かな。首吊りの方法なんかもまだまだ調べきれていないし…。

 

とにかく早いうちに昼間に外出先で泣きそうになった時の対策を考えなければならない。

こうやって周りに死にたいと思っていることを勘付かれないようにという意識が働いている辺りがやっぱり、そういう人間なんだなあと思ったり。

選択肢としての自殺

もうここ半年ほど、死にたいという気持ちを抱えながら生きている。

 

ただ、いつでも死にたくて仕方がないわけではなくて、死にたくて死にたくて仕方がない時間とそうでもない時間の行き来を永遠に繰り返しているといった感覚に近い。

重苦しい気持ちは夕方から夜寝るまで続いて朝には消えていたり、昼間も続いたり、かと思えば朝も昼も夜も全くそういった感覚に囚われない日もあるから不思議だ。

 

死にたいという気持ちに襲われることについて、気分が落ち込む前に別に直接的に嫌なことやつらいことがあるわけではない。例えば上司に怒られたとか、恋人に振られたとか、そういう因果関係の因に相当する出来事があったうえで「死にたい」という気持ちになるわけではないのだ。

 

「死にたい」と願う気持ちのことを「希死念慮」というのだそうだ。

ものごころがついた時に既にネットがあった世代の私は、最近は特に分からないことや興味があることができるとすぐにGoogleアプリを起動するようになった。

希死念慮、で検索すると関連の記事が山ほど検索結果として表れる。

知っていたような知らなかったような、希死念慮を抱いて生活している人は案外多いらしい。へえ。

でもだからってなんなんだという話である。死にたいと思いながら皆生きているんだから自分も生きなきゃいけないのか???そんな馬鹿な

 

そもそも私が死にたい理由ははっきりしていて、それは私に生きている理由がないからである。それに死んではいけない理由もない。これまで、誰かに「なぜ生きているのか」と聞かれたら「死んでいないから」と答えていた。間違っていないと思う。死んでいないから生きている。

今は生きることに執着心がないし、このまま生き続けたとして明るい将来が待っているとも思えず、ならば早く死にたいなあと思うばかりだ。

 

自殺についても何回か調べた。

睡眠薬をたくさんのめば眠るように死ねるし、遺体も綺麗、という情報はなぜかもともと知っていたので、自殺するならこれかな と思っていたが、死に至るまでのODをするにはそれこそ何百錠も服薬しなければならないし、失敗すれば吐き気やらめまいやら胃洗浄やら大変な思いをすることになるそうだ。

なんだ、全然手軽じゃないじゃないか。

ネットの海というのは人間が作り出しただけあってどこか狂っていて、自殺や希死念慮について検索すると、検索結果の大半はこれらを制し、生きてこそだよというメッセージを発信するものだが、稀に「自殺志願者に自殺を諦めてもらうのが目的です!」と言いつつ、失敗しない自殺方法について詳しく教示してくれるサイトなんかもある。首吊りに最適なロープの太さや解けないロープのくくり方まで解説されていたのにはつい笑ってしまったが、参考になったのでブックマークをした。

これらのサイトを流し読みしていると、しばしば自殺体験記なるものに辿り着く。自殺に至った経緯と自殺企画からその失敗、現在の状況が書かれていることが多い。私が読んだこれらの体験記では、自殺に失敗した筆者は自殺未遂について深く反省し、前向きに生きようとしていることが多い、というかほとんどそうである。身内や医師の監視でも受けているのかというほど、彼らは生きることについて前向きなのである。

私はこれが不思議でたまらない。死ぬことに失敗した途端そんなに考え方って変わるものなのだろうか。勢いで自殺未遂をしてしまったけど、失敗して時間を置いたら落ち着いた?それとも、失敗したということは神様が自分にもっと生きろとおっしゃっている?死ねなかったから生きるしかない? 

わからない。

当たり前ではあるが、自殺成功体験記などというものは存在しない。あるのは死ねずに生き残った人が残した失敗体験記だけである。

成功と失敗。

私たちは失敗談しか聞くことも読むことも、書くことすらもできない。

自殺だけに限らず、生死について我々は両方の話を聞いて判断することが許されていない。死後の世界について我々に情報が解禁された場合、自殺は減るだろうか増えるだろうか考えると楽しい。

もし自殺成功体験記が読めたとして、その筆者は自殺成功を喜んでいるだろうか。それとも、失敗体験記筆者の「失敗したけど生きることについて前向きに捉えることができた」という謎の死生観180度回転コメントのように、「自殺には成功したけど、もっと生きるべきだった」と自殺成功を悔やんでいるだろうか。

 

話は飛ぶが、Twitterで最近フォローしたサラリーマンが当たり前のようにODをしていて軽い衝撃を受けた。市販薬で簡単に意識を朦朧とさせることができるらしい。今までODという行為が身近になかったので、すごく興味深いと思ったし、楽しそうだと思った。機会があれば挑戦してみたいと思う。

 

とにかく、私には自殺がダメな理由が分からない。「皆が悲しむからダメ」と言われれば、「私はみんなを喜ばせるために生きているわけではないし、そういう風に生きるのはもう疲れた」と返事するし、「まわりに迷惑がかかるからダメ」と言われれば、「迷惑をかけなければいいのだな」と返事するだろう。

 

これから生きていく中で生まれるであろう様々な局面において、その選択肢に「自殺する」を加えることで、生きることが圧倒的に気軽になったという実感がある。

生きなくてはいけない理由なんて無いんだから。

 

今はいつ死んでもいい状態にするためにモノを少しずつ処分して身の回りを綺麗にしたり、少しでも多く葬儀の費用に充てるため無用な買い物は避けたりしながら生きているし、自殺の直前にはPCやスマートフォンを初期化したりTwitterのアカウントを消したりと、少しでも遺族の負担を減らす心づもりでいる。

そうこうしながら寿命を迎える気もする。

 

1番ありがたいのは事件性の無い事故の犠牲となって死ぬことだ。

事故の犠牲者になれたら、自殺の場合と違って「運が悪かった」で済むし、周囲に余計な心理的負担をかけずに済みそうだから。

食欲、もどりました

ここ2週間ほど失せていた食欲が復活しつつある。

私は生まれてこのかた、歩く食欲と言っても過言ではないほど食欲を軸に生きてきたような人間であるが、その食欲がぱったりと消えたのだ。

 

大問題だ。

悲しいこと、つらいこと、やりきれないことがあれば、いつだって美味しいものを食べて持ち直していたのに。

悲しいこと、つらいこと、やりきれないことがあっても、美味しいものを食べようと思わない。なぜ。

 

今回、食欲を失って気づいたことをこの機会にメモしておきたい。

①おなかはすくが慣れる。

②美味しいものがあるのは知っているが、食べようとは思わない。

③食べようと思わないのに食べるのはもったいないし美味しいものに失礼だから、という理由で食べない。

④食べずに倒れたりなんかすると迷惑をかけるから、という理由で手近な菓子を口にするようになる。

⑤体重が減るのが楽しくなってくる。

⑥たまにお皿なんかを使ってものを食べると、食器洗いが面倒でシンクに皿を溜める。

思いつくのはこれくらいか。

 

作るのが面倒という場合は、作るのは面倒だが食欲はあるので買ってきたものなんかを食べて満足し、ごみ箱がプラスチックで埋まることになるのだが、そもそも食欲がない場合だとごみがほぼ出ないし、それと同時に気力体力が出ない。

 

いやあ、もどって良かった食欲。

今はオムライスとラーメンが食べたいです。

「告白ハラスメント」

つい最近、ネットで「告白ハラスメント」なるものを知った。

男性が成功の見込みのない告白を女性にすることで、告白された女性が精神的苦痛を受けるのだそうだ。

 

セクハラに始まり、モラハラ、マタハラ、アルハラアカハラ…と最近、なんにでもハラスメント問題がひっついてくる。

「まったく、なんでもハラスメントって言えば良いと思ってるんだろ」という声もあちこちで聞く。

 

しかし、この次々に新しいハラスメントが誕生する風潮、私はむしろ清々しくもある。

今まで苦痛を受けていても我慢していて言えなかったことを、嫌だ、つらいと発信できる時代になったということを言葉の誕生が証明していると思うからだ。

世間一般に言われる若者の酒離れといった現象についても、今まで嫌々行くしかなかった会社の飲み会を嫌だと断れる時代になった、断って苦い顔をされつつも許される時代になった、ということなのではないか。

 

話をもどす。

今回話題になっている「告白ハラスメント」について、男性と思われるユーザーから、かなり批判的な発言が見られた。

告白するのもダメなのか、イケメンだったらそんなこと言わないんだろ、じゃあずっとじっと見てても良いんだな、などなど…。

 

元記事を読んだら、そんな感想にはならないと思うのだが。

 

成功の見込みが無い告白が許されるのは中高生までかな、と私は思う。

いい年した大人のする告白というのは、何度もデートなりなんなりして、お互いの人間性や自分への好感度が掴めたところで、ひとつの契機としてお互いの気持ちを確認する作業みたいなものであって、一方的に募らせた好意を相手にぶつける行為は、そりゃ引かれて当然なのではないだろうか。

今回の場合は、親しくもない男性から長文LINEが送られてきて、女性に彼氏がいることを知っている上で、自分と女性との将来についても書かれていたという。

 

告白をすることが悪いのではない。

ましてやイケメンじゃないと告白してもキモがられるという話でもない。

親しくもないのに勝手に蓄積させた想いを「告白」という形で美化して一方的にぶつけるという、相手を考慮しない自己中心的な行為が非難されているのだ。

さらに言うと、一方的な感情をぶつけてくるような男性に対し、断ったらどんな報復が待っているのだろうと想像するのも怖い。

そうですか、とすんなり引き下がってくれるだろうか。

 

そういう部分も含めてハラスメントに当たると主張しているのではないかな、と思った。