選択肢としての自殺

もうここ半年ほど、死にたいという気持ちを抱えながら生きている。

 

ただ、いつでも死にたくて仕方がないわけではなくて、死にたくて死にたくて仕方がない時間とそうでもない時間の行き来を永遠に繰り返しているといった感覚に近い。

重苦しい気持ちは夕方から夜寝るまで続いて朝には消えていたり、昼間も続いたり、かと思えば朝も昼も夜も全くそういった感覚に囚われない日もあるから不思議だ。

 

死にたいという気持ちに襲われることについて、気分が落ち込む前に別に直接的に嫌なことやつらいことがあるわけではない。例えば上司に怒られたとか、恋人に振られたとか、そういう因果関係の因に相当する出来事があったうえで「死にたい」という気持ちになるわけではないのだ。

 

「死にたい」と願う気持ちのことを「希死念慮」というのだそうだ。

ものごころがついた時に既にネットがあった世代の私は、最近は特に分からないことや興味があることができるとすぐにGoogleアプリを起動するようになった。

希死念慮、で検索すると関連の記事が山ほど検索結果として表れる。

知っていたような知らなかったような、希死念慮を抱いて生活している人は案外多いらしい。へえ。

でもだからってなんなんだという話である。死にたいと思いながら皆生きているんだから自分も生きなきゃいけないのか???そんな馬鹿な

 

そもそも私が死にたい理由ははっきりしていて、それは私に生きている理由がないからである。それに死んではいけない理由もない。これまで、誰かに「なぜ生きているのか」と聞かれたら「死んでいないから」と答えていた。間違っていないと思う。死んでいないから生きている。

今は生きることに執着心がないし、このまま生き続けたとして明るい将来が待っているとも思えず、ならば早く死にたいなあと思うばかりだ。

 

自殺についても何回か調べた。

睡眠薬をたくさんのめば眠るように死ねるし、遺体も綺麗、という情報はなぜかもともと知っていたので、自殺するならこれかな と思っていたが、死に至るまでのODをするにはそれこそ何百錠も服薬しなければならないし、失敗すれば吐き気やらめまいやら胃洗浄やら大変な思いをすることになるそうだ。

なんだ、全然手軽じゃないじゃないか。

ネットの海というのは人間が作り出しただけあってどこか狂っていて、自殺や希死念慮について検索すると、検索結果の大半はこれらを制し、生きてこそだよというメッセージを発信するものだが、稀に「自殺志願者に自殺を諦めてもらうのが目的です!」と言いつつ、失敗しない自殺方法について詳しく教示してくれるサイトなんかもある。首吊りに最適なロープの太さや解けないロープのくくり方まで解説されていたのにはつい笑ってしまったが、参考になったのでブックマークをした。

これらのサイトを流し読みしていると、しばしば自殺体験記なるものに辿り着く。自殺に至った経緯と自殺企画からその失敗、現在の状況が書かれていることが多い。私が読んだこれらの体験記では、自殺に失敗した筆者は自殺未遂について深く反省し、前向きに生きようとしていることが多い、というかほとんどそうである。身内や医師の監視でも受けているのかというほど、彼らは生きることについて前向きなのである。

私はこれが不思議でたまらない。死ぬことに失敗した途端そんなに考え方って変わるものなのだろうか。勢いで自殺未遂をしてしまったけど、失敗して時間を置いたら落ち着いた?それとも、失敗したということは神様が自分にもっと生きろとおっしゃっている?死ねなかったから生きるしかない? 

わからない。

当たり前ではあるが、自殺成功体験記などというものは存在しない。あるのは死ねずに生き残った人が残した失敗体験記だけである。

成功と失敗。

私たちは失敗談しか聞くことも読むことも、書くことすらもできない。

自殺だけに限らず、生死について我々は両方の話を聞いて判断することが許されていない。死後の世界について我々に情報が解禁された場合、自殺は減るだろうか増えるだろうか考えると楽しい。

もし自殺成功体験記が読めたとして、その筆者は自殺成功を喜んでいるだろうか。それとも、失敗体験記筆者の「失敗したけど生きることについて前向きに捉えることができた」という謎の死生観180度回転コメントのように、「自殺には成功したけど、もっと生きるべきだった」と自殺成功を悔やんでいるだろうか。

 

話は飛ぶが、Twitterで最近フォローしたサラリーマンが当たり前のようにODをしていて軽い衝撃を受けた。市販薬で簡単に意識を朦朧とさせることができるらしい。今までODという行為が身近になかったので、すごく興味深いと思ったし、楽しそうだと思った。機会があれば挑戦してみたいと思う。

 

とにかく、私には自殺がダメな理由が分からない。「皆が悲しむからダメ」と言われれば、「私はみんなを喜ばせるために生きているわけではないし、そういう風に生きるのはもう疲れた」と返事するし、「まわりに迷惑がかかるからダメ」と言われれば、「迷惑をかけなければいいのだな」と返事するだろう。

 

これから生きていく中で生まれるであろう様々な局面において、その選択肢に「自殺する」を加えることで、生きることが圧倒的に気軽になったという実感がある。

生きなくてはいけない理由なんて無いんだから。

 

今はいつ死んでもいい状態にするためにモノを少しずつ処分して身の回りを綺麗にしたり、少しでも多く葬儀の費用に充てるため無用な買い物は避けたりしながら生きているし、自殺の直前にはPCやスマートフォンを初期化したりTwitterのアカウントを消したりと、少しでも遺族の負担を減らす心づもりでいる。

そうこうしながら寿命を迎える気もする。

 

1番ありがたいのは事件性の無い事故の犠牲となって死ぬことだ。

事故の犠牲者になれたら、自殺の場合と違って「運が悪かった」で済むし、周囲に余計な心理的負担をかけずに済みそうだから。