「死にたい」と「自殺したい」は一緒のようで別

座間の事件が世間をざわつかせている。

Twitterで自殺仲間を募集した女性などを男性が自宅に連れ込み、2ヶ月あまりで9人もの人を殺害したという事件で、その異常性やネット社会などを焦点にニュース番組やワイドショーは連日この事件について時間を割いている。

 

この事件について、「死にたがってた人が死ねたんだから、当初の目的は達成しているし、需要と供給の関係が成り立っているから良いじゃないか」とか、「被害者は殺害される時、抵抗したそうだ。死にたいと口にする人は本当に死にたがっているわけではない」とか、とにかくいろんな意見を見聞きした。

私はこのどちらの意見に対しても「それは違うんじゃないか」と思う。

「需要と供給」云々に関しては、まずこのひとは「需要=死にたい」「供給=殺したい」であると想定してこのような発言に至ったと考えられるが、果たして本当にそうだろうか。また、「死にたいと言っていた人が死ぬのを嫌がった」に関しても、被害者の言う「死にたい」の本意がどうあるか検討されてしかるべきではないか。

 

私は、被害者たちの言う「死にたい」は、「自殺したい」であると考えている。「死にたい」は状態を願っていて、「自殺したい」は、その状態に至る手段を自殺に特定する表現で、この二つには大きな差異がある。例えば、自分が「死にたい」と思うとき、確かに「死にたい」が、「殺されたい」と思ったことはない。大抵「死にたい」時は「自殺したい」とか「消えてしまいたい」時であり、「殺されたい」はもっと特殊な場合、特定の相手に対して抱くことが多いという気がする。

今回の事件では、被害者が自殺仲間を募集していたことからも明らかであるように、この「死にたい」は特に「自殺したい」ことを指すように思う。そうであるので、「需要=死にたい」は適切ではなく、「需要=自殺したい」のほうがより実際に近いと考えれば、「需要=自殺したい」「供給=殺したい」となり、需要と供給の関係は成り立たない。

また、それに加えて、「死にたがっていた人が死ぬのを嫌がった」ということに対しても、「自殺したがっていた人が殺されるのを嫌がった」のは当然であり、「死にたいと言う人は本心では生きたがっている」と結論づけるのは少し強引すぎるのではないだろうか。

 

話は逸れるが、現在のメンタルヘルスケアの観点では、「死にたいと口にする人は本心では生きたがっている」というのが定説であるようだが、私はこれに関しても異を唱えたい。死にたいという状況は様々な問題や荷物を抱え込み、将来への希望が見えなくなることで、生への執着が薄れるために引き起こされる感情であり、これはあくまで一時的なものであるから本心ではない、ということらしい。

一時的だと本心ではないのだとしたら、じゃあ空腹は、恋愛感情は、どうなる...?たとえ一時的であろうとも、その時そう思っていることは確かであるので、私は「死にたい」と思う時、本心は生きたいと思っているんだと感じたことはないし、また本心では生きたいと思いながら「死にたい」と言ったり書いたりしたこともない。本心から「死にたい」「自殺したい」と思う。

だから、「死にたい」は「生きたい」だよ、と言われても全然しっくり来ないし、私の本心を否定しないでくれ、と叫んでいる。もちろん心で。